Bunkamuraと東急本店の思い出

大学生になるまで、渋谷といえばBunkamura丸善ジュンク堂書店だった。地下鉄を降りて109の脇から地上に出ると、文化村通りをまっすぐ東急本店に向かう。文化村通りの外には決して出ない。雑多で賑やかな、人がごった返す街が怖かった。

ザ・ミュージアムをいちばん訪れたのは2011年。3月の『シュテーデル美術館所蔵 フェルメール<地理学者>とオランダ・フランドル絵画展』にはじまり、『花の画家 ルドゥーテ『美花選』展』、『フェルメールからのラブレター展』とこの年の展示はすべて観た。当時中学生のわたしは、所属していた美術部で仲良くなった友だちと休日にたくさんの美術展を観に行った。2011年のBunkamuraでの展示もすべてその子と一緒だったと記憶している。

その友だちとは上野には上野の、渋谷には渋谷のそれぞれお決まりの過ごし方があった。渋谷ではまず開館と同時にザ・ミュージアムに入館し、午前中はじっくり鑑賞。その後今は無きセガフレード・ザネッティエスプレッソ渋谷店で、向かいにあるH&Mの巨大広告を眺めながら毎回同じパニーニを食べ、午後は東急本店の丸善ジュンク堂書店で端から端まで順番に本棚を眺めて、目についた本について静かにお喋りをした。特にお気に入りだったのは美術、哲学、歴史。今思えば迷惑な客だったかもしれないが、働きはじめてからいちばん本を買った書店なので許してほしい。

家の近所には小さな本屋しかなかったので、大型書店は都内へ出かけるときの楽しみのひとつだった。神保町の三省堂日本橋丸善のような、いくつもの階に分かれた書店も大好きだったけれど、丸善ジュンク堂はワンフロアとは思えない充実したラインナップが魅力だった。何度行っても新しい出会いがあり、欲しい本ならなんでも揃っていた。こんなに素晴らしい書店がまたできることがあるだろうか。小さいころお気に入りだった書店が相次いで改装し、売場面積が小さくなる現象を経験しているばかりに、今回の閉店が悲しくてしかたがない。

話を中学生のころに戻す。あるとき東急本店のまえに、はらドーナッツのキッチンカーが止まっていた(はらドーナッツカーと呼ぶらしい)。初めて見るおしゃれなドーナッツに思わず足が止まり、ふたりでちょっと考えて買おうということになった。各々好きなドーナッツを選び、その場で食べたときの高揚感は忘れられない。食べたいと思ったものを、誰の許可も得ずにじぶんで選んで食べている!大人になるってこんなに楽しいのか!その後吉祥寺のお店を何度か訪れたが、このときほど美味しく感じられたはらドーナッツはなかった。

大学生になって渋谷で働きはじめ、文化村通り以外の渋谷を知るようになっても、109から東急本店までの道、そしてBunkamura丸善ジュンク堂書店は特別な思い出の場所だった。再開発が続く渋谷だが、なんとなくずっとそのまま残る気がしていた。思い出の場所はどんどん無くなり、街並みは変わってしまう。

記憶が正しければ、ザ・ミュージアムは2013年の『山寺 後藤美術館コレクション展 バルビゾンへの道』以来訪れていない。常設展示を持たない美術館は、気になる企画展がなければ行くことがない。今振り返ると観ておけば良かったと思う展示はあるけれど。休館前最後の展示となる『マリー・ローランサンとモード』は観に行こうと思う。

優しくなりたい

‪種差別という言葉を知ったのはつい先日のことである。‬‪

動物搾取への問題意識からヴィーガンの考えかたに関心を持ってしばらく経ったころ、たまたま『講座あにまるえしっくす』が本になると知り購入した。‬
‪最近は疲れて本があまり読めないのだが、『講座あにまるえしっくす』は初心者にもわかりやすく、漫画なのもあり一晩で読むことができた。そして一晩でわたしの価値観は大きく変わってしまった。

‬‪『講座あにまるえしっくす』によれば種差別とは「ヒト以外の動物の利益をヒトの利益よりも低く見積もる考え方や態度」のことを言う。漠然と動物を搾取するのは良くないと感じていたが、種差別という概念を知り、じぶんが動物の尊厳を人間の尊厳よりも下に見ていたことをはっきりと自覚した。同書で引用されていたアイザック・バシェヴィス・シンガーの「動物に対してすべての人間はナチだ」という言葉はあまりにも衝撃的で、読んでからずっと頭の片隅にある。‬
‪今までわたしの「反差別」は対象を人間に限定していた。それこそがまさに種差別である。‬

反種差別という立場から世の中を見まわすと、ありとあらゆる場所で動物が搾取されていることに気づく。‬
‪例えば白砂糖。動物由来ではないのになぜと思ったが、精製に骨炭を使うのでヴィーガンは避けると言う。見えないところでも動物が搾取されているのだと知った。‬‪

骨炭と聞いて真っ先に思い浮かんだのはボーンチャイナだった。ボーンチャイナは牛の骨灰を混ぜて作る磁器。反種差別なら使うべきではないのかもしれない。さらに調べると口縁部を整える際にはなめし皮を、絵付けには膠、そして動物毛の筆が使われるということがわかった。ということは、ボーンチャイナでなくても磁器生産において動物が搾取されているというのが現状なのだろう。‬
‪これが個人的にいちばんショックな事実だった。‬‪

ヴィーガンに関心を持ってから、ウールやカシミヤやシルクの衣服、革の靴や鞄、動物毛のブラシ、真珠のアクセサリーに対する愛着が薄れていくのを感じていた。それらはすべて一生もののつもりで買ったが、これから先も変わらず愛していくのは無理だろうという結論に至った。だからと言って全てをすぐに手放すつもりはないが、少なくとも新たに買うことはないだろう。‬
‪ところが食器についてはあまり考えていなかった。なんとなく大丈夫だろうと思っていた。わたしを癒してくれる、いつも幸せな気持ちにしてくれる食器もまた、多くの犠牲によって作られていたのだ。あまりにも残酷な現実だった。‬

日常生活の隅々まで、こんなにも動物の搾取が当たり前のように行なわれていたのだとようやく気づき、苦しさと罪悪感を覚えながら過ごしている。そして搾取をする側はこんなにも搾取に鈍感になれるのだと実感する日々である。現代では誰もが差別的だと考えるような偏見や価値観も昔は当たり前だったという話を聞くたびにそんなバカなと思っていたが、今ではその感覚がはっきりとわかる。‬
‪気づいてしまったからには戻れない。正直磁器を諦められる自信はまだない。研究の対象とするのはまだしも、所持するのはやめるべきなのだろう。少なくとも今までのように、純粋に愛でることはもうできないのだ。それでも所持し続けるのか。複雑な気持ちではある。‬

‪種差別について知ったことを後悔はしていない。誰も踏まないで生きるというのが、これまでもこれからもずっと変わらない、わたしのいちばん大切な軸だから。これまでもじぶんの中の差別的な価値観とずっと闘ってきたし、そのたびにアップデートしてきたと思う。今回は意識だけではなく衣食住すべてを変える必要があるぶん、今までよりは難しいかもしれない。それでもできる限りの努力をするつもりだ。‬

‪いつか本当に優しいひとになれますように。‬

講座あにまるえしっくす ‬
https://www.pixiv.net/user/16962568/series/51160

 

‪追記‬
‪先日お誕生日のプレゼントに、大切な友だちからカップアンドソーサーをもらった。その一客だけは何があっても本当の一生ものです。‬

動物がにがてだ

動物がにがてだ。

ツイッターでは毎日のように、「癒される動物の動画」が流れてくる。それをひとつひとつミュートしながら、気持ちわるいなぁと思ってしまう。

気持ちわるいのは動物ではない。未熟さを愛でる風潮である。

突き詰めて考えれば動物そのものがにがてなのではない。奄美に旅行をしたとき、金策原ツアーを大いに楽しんだ。鬱蒼とした原生林でラッパのようなセミの鳴き声を聞いたり、田中一村の絵に登場する鳥を見たり、ガイドさんに言われるまま葉を口に含んで味わってみたり、どれもこの夏のキラキラとした思い出だ。

野生に暮らす動物と触れ合うことなく、ただその生態を見せてもらうのは純粋に楽しい。その距離感でなら、わたしは動物が好きだと言える。

でも人間に飼育されている動物は好きになれない。ペットが人間と対等でいられるはずがない。そこには必ず支配-被支配の関係がある。ひとはそれをわかっていて、安全に愛でられる存在を求めるのである。

ペットにドッキリを仕掛ける「癒し動画」をよく見かける。タネがわからず驚いたり困惑したりする姿を、可愛いと消費する。じぶんたちよりも弱くて「知性」が低いとみなした対象の、未熟さを愛でる。

逆に「賢さ」を賞賛する動画もある。しかしその場合も、人間よりも「知性」が低いとみなしているからこその賞賛なのではないかと邪推してしまう。

わたしは人間のこうした心の動きがこわい。

動物に罪はない。ただわたしは対等でいられると感じられる相手しか好きになれない。だから子どもも後輩も人間に飼育されている動物もにがてなのである。

ついでに言えば「ほっこり」「ほのぼの」というフレーズは大嫌いだ。ほっこりほのぼの生きているやつなんか存在しないよ。消費せず消費されずに生きていたい。

ダッフルコート

冬が好き。でも寒さには弱い。寒い冬でも活動的になるには、信頼できる相棒ーーどんな寒さからでも身を守ってくれるコートが必要不可欠だ。

コートを買おうと思い立ったのは大学2年生の冬。高校生のころ地元のアウトレットで母に買ってもらったダッフルコートは、それなりに気に入ってはいたものの、少々子どもっぽいと感じていた。この冬は絶対新調するぞと決意し、さっそくファッション誌で理想のコートを探し始めた。

わたしの買い物は、頭のなかにすでにある理想形にいちばん近いものを探す旅だ。理想のコートは案外簡単に見つかった。ロング丈のシンプルなダッフルコート、色はネイビー。コートはベーシックなデザインが比較的多いので助かる。

ブランドが無事に決まり、用事のない放課後にお店に見に行った。まだクレジットカードを持っていなかったので、大金を握りしめてどきどきしながらお店に向かった。

ところが実際に手にとってみると、理想とは少し違う。絶対に今日新しいコートを買うつもりだったのに。がっかりしてお店を出た。

諦めきれずお気に入りのお店を何軒かうろうろしていたら、理想に近い形のコートに出会った。でもネイビーがない。店員さんに尋ねると、人気の色なので売れてしまったとのこと。がっかりしていたら、調べてほかの店舗に在庫があると教えてくれた。取り寄せることもできるという。

とりあえずお店にあったコートを試着してみると、少し大きい。店員さんはいま手元には大きいサイズしかないが、このコートはサイズが2つあって、わたしには小さいほうが良いだろうと言った。「小さいサイズのネイビーをお取り寄せしましょうか?」

サイズ感もわからないし、好きな色味かどうかも不安だったけれど、とりあえずお願いすることにした。なんとしてでもこの冬は新しいコートを買いたい。

後日コートが届いたと連絡があり、お店に見に行くと、そこには理想のコートがあった。濁りのない鮮やかな暗いネイビー、着てみるとサイズもちょうど良い。あまりに嬉しくて着て帰りたいと伝え、ブラシをかけてタグを切ってもらった。そのまま着せてもらってお店を出た。

ガラス張りのショーウィンドウに映るじぶんの姿を見て、なんて素敵なコートなのだろうとうっとりした。人生で初めてじぶんで買ったコート。すこし硬くて重たくて、冷たい風からも雨からも守ってくれる。その冬からわたしの大切な相棒になった。

コートは定期的に毛玉をとりブラシをかける。本当は毎日やらないといけないけれど、ズボラなのでなかなか続かない。そのかわりにお休みの日はしっかりケアをする。

贅沢なものは手がかけられているものだと聞いたことがある。それは作られる過程はもちろん、持ち主がケアする手間も含まれると思う。どんなものでも大切に手をかければ、それだけ贅沢なものになるのだ。ブラシをかけ終わったあとの、つやつやと輝くコートを見ると、ますます愛おしく感じられる。これからも末長くよろしくね。

ひさしぶりに図書館に行った話

ひさしぶりに地元の図書館に行った。

近々丸の内でデートの予定があり、その準備のために資料を探すのがいちばんの目的。大学の図書館のほうがずっとおもしろい本が手に入るけれど、遠くて返しに行くのも面倒なのでやめた。

地元にある図書館のうち、いちばん新しい分館へ。夕方で閉まってしまう本館とは違い、夜遅くまで開いている。比較的最近の本が多めで、書店で気になった本を見つけやすいが、規模は小さく品揃えも良いとは言えない。というか、市内の図書館のなかで最も味気ない。自己啓発本と実用書が大部分を占め、知的好奇心をくすぐるような本はあまりない。文句を言いつつもたっぷり2時間以上滞在し、上限の冊数まで借りてきたけれど。

気に入っていた書店が改装し、雑誌と自己啓発本と実用書が大半の、おもしろみのない書店に様変わりしていたことを思い出す。お世辞にも売り上げに貢献していたとは言えないので、批判できる立場ではないかもしれないけれど、それでも寂しい。書店も図書館もどんどんおもしろくなくなってしまう。

雑誌や自己啓発本や実用書がわるいわけではない。ネットが普及した今でも、紙媒体の情報はなくてはならないものだと思う。少なくともわたしは、流行のファッションもお菓子のレシピも、雑誌や本で読むほうが好きだ。けれどもやはりそれだけではつまらない。目の前のことだけではなくて、社会の仕組みとか、世界の歴史や文化とか、宇宙のはじまりとか、そういう大きくて深いものについて考え、想いを馳せる機会が欲しい。

資本主義の世のなかでは、売れないものは消えていく。とくに書店はサービスで本を揃えているわけではないのだから、仕方がない。ただ寂しい。なんとなく。

図書館では本のリクエストができるはずなので、こんど行ったら調べてみようと思う。それと次にお給料が入ったら、お世話になっている書店で、ずっと欲しかった本を買おう。

 

いつかやってみたいお店の話

※この文章は以前bloggerで公開した記事です
(http://gn8-prj.blogspot.com/2018/07/blog-post_31.html)

 

美味しい紅茶を気軽にいただけるお店があったら良いなと思っていた。ホテルのアフタヌーンティのようにちょっと背伸びしておめかししていただく紅茶も大好きだけれど、そうではなくて、気負わずにふらっと入れる小さなお店。メニューはこんな感じで、内装はこうで、コンセプトは…。妄想を膨らませるうちに、じぶんでやれば良いのではという気がしてきた。"好き"だけをぎゅっと詰め込んだ、わたしのお店。

実現するかどうかは別として、妄想するのは自由だ。お店のコンセプトはまず紅茶をたのしむこと。紅茶は何種類も用意したい。ポットかティカップ1杯か選べるようにして、お気に入りの紅茶をたっぷり味わうもよし、いろいろな種類を少しずつ味わうもよし。好みや気分に合ったたのしみかたを提案したい。ロイヤルミルクティも何種類か用意しよう。ロイヤルミルクティの飲みくらべもたのしそうだけれど、すぐお腹がいっぱいになっちゃうかな。
食事はシンプルなスコーン1種類のみ。紅茶にいちばん合うと思うから。料理があまり得意でないのもあるけれど、食事メニューが何種類もあると迷ってしまうでしょ。あくまでメインは紅茶なので、主張しすぎず飽きのこないシンプルなスコーンが良いと思うのです。もちろん、コクのあるクロテッドクリームとつぶつぶで甘い自家製の苺ジャムをたっぷり添えて。
ティカップとお皿はブルーウィローのような、白地に青い模様が施された硬質陶器。複数人のお客さんには、スコーンを硝子のケーキスタンドで提供したら可愛いかも。


内装のコンセプトは木陰のような、ちょっと暗くて、静かで、木のぬくもりを感じる空間。疲れたときに行きたくなる、心が休まる場所。店内は窓から差し込む自然光にやさしく照らされて、白くてぼんやりとした明るさに包まれている。窓には歪みのある古い硝子をはめ込んで、白いアンティークレースのカーテンをかける。外には森のような青々とした景色が広がり、陽が傾くと木の影が店内に落ちる。床は古い板材で、壁は漆喰。どっしりとした木のテーブルはひと2人が向かい合って座るのにちょうど良い大きさで、繊細な刺繍の施された白いテーブルクロスに青いティカップが映える。席数は5つくらい。小さな音量でジャズピアノなんかを流しても良いかな、邪魔かな。


気が効くほうではないので、注文はすべてカウンターで承る。先にお代をいただいて、番号札を渡して席で待ってもらう。お冷はセルフサービス。接客に使うエネルギーは最小限に抑えつつ、また来たいと思ってもらえるように感じ良く、適切な距離感で接したい。あまり気を使うと疲れてしまうから、店員のわたしもお客さんもお互い気楽に振る舞える雰囲気をつくれたら良いな。


立地は住宅地か商店街のはずれが良いけれど、それだと店内から森のような景色はなかなか見られない。代々木公園とか井の頭公園のような木がたくさんある場所の近くにしようかな。とにかくあんまり人通りが多すぎない通りにする。


お客さんがゆっくり読書をしたり、友だちと静かに語り合ったり、紅茶の飲みくらべをしたり、思い思いの時間をのんびり過ごしてくれたら最高。そして、紅茶ってこんなに美味しいんだなって思われたい。紅茶の華やかな香りとスコーンの香ばしい香りに包まれて、じぶん好みのインテリアや食器にかこまれて、静かに働くなんて素晴らしいな。いつかそんな暮らしがしたい。

死刑制度

※この文章は以前bloggerで公開した記事です
(http://gn8-prj.blogspot.com/2018/07/blog-post_6.html)

 

死刑制度について考えた


加害者の死によってしか得られない平穏は確かにある。それは紛れもない事実だ。悪いのは加害者なのに、どうして被害者が怯えながら生活しなければいけないのか。加害者がいなくなればすべて解決なのに。ずっとそう思っていた。殺したいほど憎かった。

 

でも一方で、権力によって人殺しがなされることに恐怖を覚えた。例外的に一部だけ認める、なんてことはあり得ないのだ。権力は公正ではないから。なにが良くてなにが悪いのか、判断するのは人間だから。死刑制度を支持することは、戦争を支持することと同じなのかもしれない。