動物がにがてだ

動物がにがてだ。

ツイッターでは毎日のように、「癒される動物の動画」が流れてくる。それをひとつひとつミュートしながら、気持ちわるいなぁと思ってしまう。

気持ちわるいのは動物ではない。未熟さを愛でる風潮である。

突き詰めて考えれば動物そのものがにがてなのではない。奄美に旅行をしたとき、金策原ツアーを大いに楽しんだ。鬱蒼とした原生林でラッパのようなセミの鳴き声を聞いたり、田中一村の絵に登場する鳥を見たり、ガイドさんに言われるまま葉を口に含んで味わってみたり、どれもこの夏のキラキラとした思い出だ。

野生に暮らす動物と触れ合うことなく、ただその生態を見せてもらうのは純粋に楽しい。その距離感でなら、わたしは動物が好きだと言える。

でも人間に飼育されている動物は好きになれない。ペットが人間と対等でいられるはずがない。そこには必ず支配-被支配の関係がある。ひとはそれをわかっていて、安全に愛でられる存在を求めるのである。

ペットにドッキリを仕掛ける「癒し動画」をよく見かける。タネがわからず驚いたり困惑したりする姿を、可愛いと消費する。じぶんたちよりも弱くて「知性」が低いとみなした対象の、未熟さを愛でる。

逆に「賢さ」を賞賛する動画もある。しかしその場合も、人間よりも「知性」が低いとみなしているからこその賞賛なのではないかと邪推してしまう。

わたしは人間のこうした心の動きがこわい。

動物に罪はない。ただわたしは対等でいられると感じられる相手しか好きになれない。だから子どもも後輩も人間に飼育されている動物もにがてなのである。

ついでに言えば「ほっこり」「ほのぼの」というフレーズは大嫌いだ。ほっこりほのぼの生きているやつなんか存在しないよ。消費せず消費されずに生きていたい。