日記 2

 

2024年7月28日(日)

 

昨日ブライトンの公開練習を観に行った母と妹が、お土産に銀座ウエストの焼き菓子を買ってきてくれた。小さな紙袋を開けると、個包装になった焼き菓子が5つ入っている。サブレスト、塩クッキー、ウォールナッツ、アーモンドタルト、ヴィクトリア。今日は3人とも予定がないので、午後にお茶をすることになった。

 

お茶を淹れるのはわたしの役目だ。今家にある茶葉のほとんどはわたしが買ったものだが、そうでなくても、わたしがいるときに母と妹がお茶を淹れることはなかった。3人のなかでいちばん、わたしが上手なのだ。

 

今日のお茶に選んだのは、一昨年の秋に大阪で買った、北浜レトロの大大阪クラシック。缶を開けると、茶葉の入った銀色の袋が、小さく折り畳まれて入っていた。思ったより残りが少ない。中途半端に余らせたくはないが、使い切れるだろうか。いつもの1回分は8gほど。量りに載せた小皿に、袋を逆さまにしてすべて出してみると、ぴったり10gだった。このくらいなら、渋くならずに淹れられそうだ。あらかじめ温めておいたポットに茶葉を入れると、熱せられて、にわかに強く香り立つ。ポットから立ち上る、香ばしい湯気に思わずうっとりしてしまう。そこへ沸騰したばかりのお湯を、茶葉の量に合わせていつもより多めに注ぐ。素早く蓋をし、ティージー代わりのタオルを巻いて、4分蒸らす。タイマーが鳴ったら、温めておいた別のポットに、ティーストレーナーで漉しながら移し替える。お茶は茶葉を抜いた瞬間から味が落ち始めると言われるが、このくらいの量はあっという間になくなってしまうので、あまり気にならない。それよりも好きな濃さのまま、最後まで落ち着いて楽しみたいので、わたしはずっとこの方法を採用している。

 

カップとお皿は焼き菓子の素朴な雰囲気に合わせて、ウェッジウッドワイルドストロベリー。母がずっと欲しいと思っていた柄だそうで、4年ほど前にお迎えした。母はいつも「せっかくだからちゃんと正しい位置に置いてね」と言う。カップとソーサーを「正しい位置」に合わせたときの、カップの内側とソーサーの模様の重なり具合が、母のこだわりでありお気に入りだ。

 

家には他に、わたしたちが生まれる前に香港で買ったという、コロネードブラックのカップとお皿があったが、今はちょうどいい収納場所がないので、丁寧に梱包されて引越しの段ボールに眠ったままになっていた。

 

お茶の準備が整い、めいめいが席に着くと、母が焼き菓子を分け始めた。食べものを3つに分けるのはいつでも、最も経験豊富な母の仕事だ。

 

かつてはわたしと妹の厳しい監視の下、やれあっちが大きいだの、こっちのほうがトッピングが多いだの、やいのやいの言われながらの大仕事だった。あるときなど、細い長方形のケーキを切り分ける際に妹が定規を持ってきたときは、さすがのわたしもそこまでやるかと思ってしまった。そんなわたしたちも大きくなり、少しは遠慮と譲り合いを覚えた。どうしても食べたいものは絶対に譲らない頑固さは健在だが、そうでなければ、どうぞと出されたうちの、いちばん大きいものを避けてみるくらいの余裕はある。それに、わたしは胃腸が弱くなってあまり量を食べられない日が増えたので、みずから進んで小さいものを選ぶこともあった。そういうとき母はいつも、ちょっと物足りないような顔をするのだ。

 

わたしと妹が見守るなか、母はまず、8枚入りのサブレストを開けて、それぞれのお皿に2枚ずつ配った。これはシンプルな、薄い板状のクッキーだ。続いて4個入りの、サイコロのような、ひと口サイズの塩クッキーを1個ずつ。すると余りがちょうど3つになるので、話し合い、わたしと妹がサブレストをもう1枚ずつ、母が塩クッキーを1個多く食べることになった。その他の焼き菓子はすべて1つずつしかなかったので、母が慎重に3つに割った。

 

3人で分けるとひと口ずつしか食べられないので、以前は物足りなく感じることが多かったが、今はこれがちょうどいい。苦しくならずにいろいろな種類を味わえて、むしろお得感がある。事務職になって活動量が激減したためか、胃もだいぶ小さくなったようだ。

 

焼き菓子はどれもシンプルでさっぱりしていて、わたし好みだった。塩クッキーだけはその名のとおり塩味が強かったが、それ以外は優しい味わい。「ドライケーキ」と呼ぶだけあって、サクサクと軽い食感は、お茶請けにうってつけである。

 

ひと口食べるごとにカップ1杯の紅茶が必要だった。紅茶はすぐになくなった。しかし、時刻は16時をとうに過ぎている。お茶好きとしては致命的なことに、カフェインに弱いわたしは、ふだんは睡眠に支障をきたさないように13時以降のカフェイン摂取を控えているのだった。母と妹も紅茶が足りず、わたしは飲まなくていいから淹れてくれと言い出した。さすがにそんな苦行は耐えられない。なにかなかったか必死に考える。最近、カフェインレスの紅茶を少し買った覚えはあるが、すべて職場に置いてきてしまった。茶葉の入った箱を漁っていると、乾燥のローズマリーが出てきた。以前友だちがくれた、上等なものだ。これにしよう。

 

消去法で選ばれたローズマリーだったが、これが焼き菓子によく合った。爽やかでキリッとした香りがアクセントになり、また違った表情を引き出すのだ。思いがけない発見に頬が緩む。ハーブティとのペアリングも、奥が深そうだ。

 


2024年7月29日(月)

 

夕方に飲んだ紅茶のせいで眠りが浅かったのか、4時前に目が覚めた。

目を開けた瞬間に、たった今見ていた夢の内容をほとんど忘れてしまった。場面がころころ変わり、筋書きのよくわからない夢だったが、出てきた自室がかつての実家のものだったことだけははっきりとわかる。

 

実家を出てひとり暮らしを始めてからも、夢のなかでは相変わらず、自宅といえば生まれ育った実家のマンションだった。住んでどのくらい経てば、このワンルームが登場するのだろうと興味深く思っていたが、ついに3年間、いちども夢に見ることはなかった。

 

冬に入居したばかりのこの家は、いつか夢に出てくることがあるのだろうか。天井のシャンデリアを眺めながらぼんやり考える。いやいや、そんなことより今は眠らなければ。目を瞑ってみるものの、眠気が来ない。そのうちにカーテンが明るくなり、やがて部屋全体が朝の光に包まれた。アラームが鳴った。二度寝もできずに起床時間を迎えるなんて。やはり夕方のカフェインはよくない。

 


山が見える朝だった。山が見えるのは気温の低い時期だけだと思っていたので、いつもの通勤電車でふと視線を上げたとき、地平線に青い山々が連なっているのを認めて驚いてしまった。引越してきたばかりの、あの冬の朝ほどの鮮明さはないが、なかなかよい眺めである。夏には山など見えないとはなから決めこんで、毎朝この景色を見逃していたのだとしたら残念なことだ。

 

9時。始業を告げるチャイムの後、フロアにラジオ体操が流れ始める。派遣会社の担当者と一緒に受けた面接で、「建設業らしいことといえば、毎朝ラジオ体操をするの、おもしろいでしょ」と聞いたときから、いい習慣だなと思っている。席を立ち、背伸びの運動をしながら窓の外にいつもの船を探す。いるいる。側面の紺と赤が目を惹く、あの大きな船は貨物船だろうか。毎朝なんとなく気になって、停泊しているかどうか確認してしまうのだ。姿を見られたことに満足していると、その奥のビルとビルの間に、青い影を発見した。そんなまさか。じっと目を凝らす。やっぱり間違いない。山だ。オフィスから山が見える!

 

ラジオ体操が終わって席に着くなり、Googleマップを開いて方角を調べる。相模原あたりだろうか。とにかく、オフィスから山が見えるだなんて知らなかった。これも今まで気がつかずに見逃していたのだろうか。

その後も気になって度々様子を見ていたが、1時間後にはほとんど霞んでしまい、昼には完全に見えなくなっていた。

 


2024年7月30日(火)

 

連日「災害級の暑さ」「地球沸騰化」などと騒がれ、熱中症への警戒が呼びかけられているが、畜産や資本主義が環境に与える影響については話題にならない。コンクリートだらけの東京で、再開発により樹木が次々と伐採されていることは問題にならない。この夏さえどうにかやり過ごせば、次の夏はもう少しマシになるだろうとは、わたしには到底考えられないのだけれど。熱中症への注意喚起や、暑さ対策のアイディアをシェアすることも必要ではあるが、それだけでは片手落ちで、場当たり的な対策ではなく根本的な改善に向けて、早急に動かなければならないところまできている。今や気候変動は地球上の動植物すべての命に関わる問題であり、最優先で取り組むべき課題のひとつであると思う。

 

「優しくなりたい」という記事を書いてから4年が経つ。記事にもあるとおり、わたしがヴィーガニズムに関心を持ったのは種差別への問題意識からだった。そして気候変動や、近年相次いで発見される恐ろしい感染症もまた、畜産と深く関わりがあり、より弱い立場に皺寄せのいく問題だ。ますます菜食の重要性を感じる一方で、その難しさも身に沁みてよくわかる。最初は完璧にやらなければという思いが強すぎて、実家で出されたものや社員食堂のメニューがほとんど口にできなくなり、周囲に心配されるほど痩せた。もちろん、厳格な菜食主義者が理想ではあるが、現実問題、選択肢がなさすぎる。また、食事は単に生きるための栄養補給というだけではなく、コミュニケーションの場であったり、娯楽であったりする。その側面を無視して、今までの生活を180度方向転換することは、わたしにはできなかった。それでも、じゃあいいやと放り投げるのではなく、できるかぎり動物性原料の消費を減らす生活をしようと心がけて今に至る。特にひとり暮らしの3年間、頂き物を除いて自宅には動物性食材を持ち込まないと決め、守ることができたのは自信になった。けれどもそれも、さまざまな条件が重なって実践できたことで、ひとり暮らしなら誰でもやれるとは思わない。「できるかぎり」の基準は他者が決められることではない。

 

わたしが動物性原料の消費を減らす生活を心がけるうえで、大切にしているのは持続可能であることだ。完璧主義に囚われすぎず、長く続けられる塩梅を探ること。厳格に実践している方からすれば、怠惰にしか見えないかもしれない。正しくもないかもしれない。それでも、この4年間の積み重ねは無意味ではないと思っている。だからもしも、この暑さがしんどいと感じている方がいたら、今日の献立を考えるとき、あるいはレストランでメニュー表を眺めているとき、少しだけ意識してみることを提案したい。

 

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【おすすめの本】

『荷を引く獣たち:動物の解放と障害者の解放』、スナウラ・テイラー著、洛北出版、ISBN9784903127309 | 洛北出版

 

 

2024年7月31日(水)

 

自室にエアコンがないので、リビングにモニターとパソコンを持ちこんで仕事をしていると、11時ごろに妹が起きてきた。テーブルの向かいに座り、寝ぼけ眼でパソコンを立ち上げる。夕方からの職業訓練校の授業に向けて、web制作の課題を進めるらしい。いつもの食卓がオフィスになったみたいで、ちょっとわくわくしてしまった。「おはようございます」と声をかけると、「あ、おはようございます、今日は時差出勤でこの時間なんです」と妹。小さい頃からそうだけれど、学校でも仕事でも、ごっこ遊びになると途端に魅力的になるのはなぜだろうか。

 

実際日々の業務も、大掛かりなごっこ遊びに思えることがある。気まぐれに始めて、飽きたらいつでもやめられる普通の遊びとは違い、資本主義に要請されるがまま、ただひたすらに「成長」を追い求めなければならないこの仕事ごっこは、まったく魅力的ではない。前職でも、今の職場でも、突然全てが滑稽に感じられる瞬間があり、そういうときは決まって、資本主義の歯車となって摩耗していく人生について考え、落ち込んでしまう。

 

少なくともわたしが携わってきた仕事のほとんどは、世の中に必要不可欠なものではなく、資本主義で利益を生むためだけにわざわざ創り出された仕事だ。前職では主に化粧品を販売していたが、大量生産大量消費の最前線に身を置いているような気がして、心身ともに疲弊していた。今の仕事は直接販売する立場ではないので、前職ほど疲れることはないが、高価な割に長持ちしないものを売っているのだなと思う。それが敢えてなのか、技術的な問題なのかはわからないけれど。

 

前職の理念は、雑貨の力でより豊かで楽しく快適な生活を創ること。たしかに共感できる部分もある。瞼に載せるキラキラのラメ、爪を彩る色とりどりのポリッシュ、そういった「不要不急」なものに価値がないと言いたいわけではない。ただ、なにもかもが過剰なのだ。過剰に生産し、過剰に消費を煽り、過剰に捨てている。その営みに加担していることが辛い。本当に欲しいと思ったものなのか、欲しいと思わされただけなのか。問題解決のための発明なのか、売るために発明された問題なのか。今じぶんがお腹が空いているのかさえ、もはやわからない。そんなビジネスが、生活に豊かさをもたらすだろうか。

 

さも重要なことのように語られる数字、複雑なルール、難しい顔で議論される課題、すべて本当は取るに足らないものだ。過剰に需要を創り出し、物やサービスを買わせ、そうやって生み出された会社の利益はわたしたちを豊かにはしない。それでも大人がたくさん集まって、ああでもないこうでもないと日々真剣に話し合っている様子が、わたしの目には奇妙に映る。いや、おそらくわたしだけではない。どんなにくだらなく思えても、お金を得るために、生きるために、ここではただ割り切って与えられた役割を演じるほかないのだから。

 

働くことで得るものがないわけではない。特に、さまざまなバックグラウンドを持つ方々との交流は、わたしに多くの気づきを与える。前職でも今の職場でも、業務自体にはあまり価値を見出せずにいるものの、人生を豊かにする出会いがあるのは事実だ。そしていつでも、一緒に働く方々の力になること、少しでも楽に働ける雰囲気を作ること、それだけがわたしのモチベーションだ。

 

労働は社会科見学だと思うことにしている。社会を知るための、アプローチのひとつとしての労働。それが正しい姿勢なのかはわからないが、観察し、考え、抵抗の方法を模索する機会として、前向きに捉えたい。そうでもなければ、フルタイム労働なんてとても耐えられる気がしない。

 

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2024年8月1日(木)

 

外に出ると、室内よりもずっと涼しかった。地面が濡れているので、夜の間に雨が降ったのかもしれない。

綿を割いてふわふわと広げたような、触れたくなる質感の雲。その間から覗く、爽やかな青の、淡いグラデーションの空。乳白色を一滴溶いたような空気。頭上からはスズメのさえずり、足元からは虫の声。すべてが優しい朝だ。

 

朝に弱いわたしは、強制力のある予定がないかぎり、朝の美しさに出会うことはない。どんなに早くベッドに入っても、この時間に起きるのは辛いものだが、朝日が差し込む室内や、目覚めたばかりの街の美しさに触れるたびに、この生活も悪くないと思える。

 

清々しい朝の街にうきうきして歩いていたのも束の間、駅に差し掛かる頃に本格的に照り始めた太陽が、まだ秋が遠いことを思い出させる。思わず俯くと、花壇の芝生に、雫がキラキラと輝いていた。単純なわたしはそれだけでまた、幸せな気分になれてしまうのだ。

 


2024年8月2日(金)

 

お米が残りわずかであることが発覚し、在宅勤務後のお散歩はスーパーへの買い出しに決定した。いつもどおり定時ぴったりに退勤打刻し、パソコンとモニターを片づけて外へ出る。まだ陽があるのに、珍しくホッとするような涼しさだ。この季節の18時は明るい。透明感のある青い空に、ピンク色の雲が浮かんでいる。影の部分は紫だ。その色合いが可愛くて、思わず写真に収めた。ひとりで歩いていると、気になったものにいちいち足を止め、じっくり眺めたり、写真を撮ったりできるのが楽しい。

 

写真を撮っていると、通りかかったひとがカメラを向けている先を目で追うことがよくある。なにを撮っているのか気になるのだろう。わたしはなんてことない街中で立ち止まることが多いので、ちょっと怪訝そうな顔をされる。電柱や電線、鉄塔、建物、空、なにもかもがおもしろい。見慣れた景色だからこそ、季節や時間帯、天気で変わる表情が新鮮に映ることもある。モネもこんな気持ちで、何枚ものキャンバスを用意したのだろうか。

 

スーパーまではすぐだった。買い物をして出てくる頃には、もっと暗くなっているだろう。名残惜しくて、しばらく淡いピンクのフィルターがかかった空を眺めた。

 

頼まれた日用品と米を買い、外に出ると見事な夕焼けだった。また写真に収めたくなってしまい、5kgの米を左腕に抱え、日用品の入ったエコバッグは右肩に掛けて、空いた右手でスマホを取り出す。何枚か撮ってみたが、あまりよくない。カメラ性能が向上しても、夕焼けの美しさを捉えることは難しいようだ。諦めて、コシヒカリと一緒に空を眺めながら帰った。

 

その夜はお椀を持つ左手が上がらず、食べるのに苦労した。

 

 

2024年8月3日(土)

 

母の勧めで足病医へ。以前登山靴を購入したお店で、足病医である店員さんに扁平足気味だと言われてから、足の様子が少し気になってはいた。そのときついでに見てもらった母も同じく扁平足を指摘され、ずっと気にしていたようだ。近所の足病医を見つけて診てもらったところ、よかったからあなたも診てもらいなさいと言う。扁平足の他にも気になる点がいくつかあったので、この機会に訊いてみることにした。

 

診察室に案内され、まずは爪切り。予約した際に切らないで来てくださいと言われていたので、結構伸びている。ひとに爪を切ってもらうなんて何年ぶりだろう。2種類の爪切りを使い分け、鮮やかな手つきでサクサクと切っていく。その後は時間をかけて丁寧にやすりで整え、最後に保湿。仕上がりの美しさに思わず惚れ惚れしてしまった。

 

次に足のマッサージ。気持ちよくて寝てしまいそうだった。自宅でできるマッサージと運動、それから親指と小指の正しい位置を保つためのテーピングも教わった。外反母趾になりやすい足ではあるものの、今のところ大きなトラブルは見られず、日々の予防を意識することでよりよい状態を目指しましょうとのことだった。

 

最後にいつも履いている靴を見てもらった。これがいちばんドキドキした。なにしろ5年以上履いているお気に入りの靴で、ボロボロになっても代わりを見つけることができず、つい最近2代目をプレゼントしてもらったばかりなのだ。合っていないと言われたらどうしよう。両足のサイズを測り、それから靴のサイズを確認する。幸いサイズ選びは間違っていないようだ。左足の甲のフィット感が足りないので、薄いクッションを入れて調整してもらった。

 

足に関する不安が解消され、晴れ晴れとした気分で帰路についた。わたしは片道1時間は徒歩圏内だと認識しているくらい、歩くことが好きだ。そして、始めたばかりの登山もゆるゆると続けていきたいと思っている。そう考えると、足のコンディションはかなり重要だ。三日坊主にならずに、教わったケアをがんばろうと心に誓った。